top of page
執筆者の写真Yoshiyuki Kawano

茨城新聞「茨城論壇」への掲載(2022/4/16)

更新日:2022年4月20日


2022年4月より2か月に一回のペースで茨城新聞 論壇への記事を書くことになりました。

         

今回はその内容をブログに掲載します。ご一読ください。


『茨城論壇』 2022/4/16 茨城新聞掲載


 この時期は街のいたるところに初々しい笑顔が溢れる。春は出会いと別れの季節と言うが、しかし、正直に言えば、私は春が苦手だ。もちろん、春は暖かく、華やいだ気分にもなる。そう考えると、私は「春」が苦手なのではなく、春の「出会いと別れ」が苦手なのだろうと自問する。そして、私は「出会いと別れ」のうち、「別れ」ではなく「出会い」の方が苦手なのだと気づく。


 「出会い」がなぜ苦手なのか。「出会い」とは、そのとおり、新しい人やモノと出会うことだ。そして、その相手と何らかの関係性が(その場限りであっても)生まれる。その関係性の先には必然として「別れ」があるだろう。では、「出会い」と「別れ」はひと続きのものであるから、「出会い」が苦手なのだろうか。いや、どうもそこではない。ここで、私は自分が専門とする「ダイバーシティ&インクルージョン」の文脈でも以前に似たようなことを考えたことを思い出した。


 「ダイバーシティ&インクルージョン(略してD&I)」とカタカナ(さらに英略字)を出されると、その時点で難しいと敬遠する人も多いだろう。日本語の直訳では「多様性と包摂」となるが、これでもまだよくわからない。最近、ビジネスなどの文脈で多用される言葉だが、誤解を恐れずに言えば、「すべての人が誰一人取り残されずに社会に存在していること」を意味する。「社会に存在している」を「参加している」とすべきかは最後まで悩んだが、一般的に「参加」というと、より能動的で何か貢献している必要があるという意味合いが強調される可能性があるため「存在」という言葉を使うことにした。


 話を戻そう。D&Iの文脈でなぜ「出会い」の話を考えたのか。それは、D&Iが結局のところ「未知」との「出会い」を意味することにほかならないからだ。D&Iは、言い換えれば「自分以外の存在との共生」を意味する。ここでは「自分以外の存在」が「ダイバーシティ(多様性)」と、「共生」が「インクルージョン(包摂)」と同義である。


 つまり、「自分以外の存在(ダイバーシティ)との出会いがなければ、「共生(インクルージョン)」は成り立たない。「自分以外の存在」とは、「未知」の存在とも言える。ここまでくると、私が苦手なのは、この「未知」との「出会い」なのだと痛感する。自分が相手に受け入れられるのか、自分は相手を受け入れることができるのか、その不安におびえているのだろう。

 

 しかし同時に、私は「未知」との出会いをこれまでに重ねるなかで、数え切れないほどの恩恵を受けてきたことにあらためて思い至る。私の生活や考え方を含め、人生のほとんどはそれらの恩恵によるものとすら言えるのかもしれない。結局のところ、私は「出会い」によっていかされているとも言える。そうであるならば、もう少し「出会い」を前向きにとらえてもよさそうだと思えてくる。


 「出会い」において、「自分が相手に受け入れられるのか」を不安に思うことは、最終的には相手が受け入れるかどうかの話で合って、私にできることは実は少なそうだ(もちろん、自分のことを理解してもらおうという一定の努力必要だと思うが)。反対に、「自分は相手を受け入れることができるのか」については、私ができることは多くありそうだ。「出会い」は私にこれまで多くの恩恵をもたらしてくれた。だからこそ、「出会い」への少しの勇気と、「自分以外の存在」を理解し、尊重しようという思いを胸に、春という季節を楽しんでみたい。




閲覧数:182回0件のコメント

Σχόλια


bottom of page