2022年4月より2か月に一回のペースで茨城新聞論壇への記事を書くことになりました。
今回はその第9回目になります。
内容をブログに掲載しますので、ご一読ください。
『茨城論壇』2023/9/16 茨城新聞掲載
『誰かの足踏んでないか』
ある日、都内の電車で満員電車に揺られていた時のことだ。満員電車の乗客を乗せた電車は、加速したり減速したりするたびに揺れながら進んでいる。揺れに合わせて体勢を直していると、ある時から右足の親指の先端辺りに圧力を感じるようになった。満員の状況なのではっきりしないが、おそらく前に立つ女性が私の右足の靴の先端を踏んでいるのだろう。最初は、そのうち気付いて足を外してくれるだろうと待っていたが、困ったことになかなか外してくれない。それほど大きく踏まれていないので、こちらの足の痛みもひどくはない。しかし、それだけに「人の足を踏んでいる」ことに気付いていないのではとも思える。これは「踏んでいますよ」と声をかけるべきかどうか。私はしばらく逡巡していた。
「足を踏む」という表現は、差別や偏見の文脈でよく「たとえ」に用いられる。今回私が遭遇した場面は差別や偏見とは直接関係しないが、「足を踏んでいる側=差別をしている側」が、自分が「足を踏んでいる」ことに気付いていないことは珍しくない。一方で「足を踏まれている側=差別を受ける側」は、「踏まれている」わけなので、多くがそのことを自覚している。だからこそ、「足を踏まれている」ことを「足を踏んでいる側」に伝えることが重要だとされる。足を踏まれている「痛み」を我慢したり、なかったことにするのではなく、きちんと伝え、その足を外させることはとても重要なことだ。それは、なにも一対一の関係性の中だけで必要なことではない。「足を踏んでいる」のは個人に限らず、組織や集団、あるいは社会全体ということもある。では、なぜ足を踏んでいる側は、そのことに気付かないのであろうか。
その一つの要因は、社会を構成するマジョリティー(多数派=いわゆる「多くの人」)にとって、マイノリティー(少数派=たとえば障害者やLGBTQ、外国籍の人など)は見えにくい存在だからだ。言い換えれば、マイノリティーが存在しないという前提で社会がつくられていれば、マジョリティーにとってはそれが「当たり前」なので、マイノリティーの「足を踏んでいる」ことにも気付かないのも当然だろう。だからこそ、この構造的な歪みを是正するためには、「足を踏まれている」ことについて声をあげ、伝えることが求められるのだ。
しかし、ここでさらに問題になることがある。それは、「足を踏まれている」ことにマイノリティーが気付かないこともあるということだ。それはどういうことか。一見すると、「足を踏まれている」のに気付かないことはありえないと思われるかもしれない。しかし、先述したように「足を踏んでいる」のが社会全体であれば話がややこしくなる。つまり、「足を踏んでいる」のが社会の中で「当たり前」の状況であれば、「足を踏まれている」のも、「当たり前」になってしまうということだ。そうなれば、いつしか「足を踏まれている」ことにすら気づかないようになるのもうなづける。そうならないためにも、マイノリティー・マジョリティーにかかわらず、私たちは誰かの「足を踏んでいないか」にもっと敏感であるべきだろう。
さて、足を踏まれてから次の駅に停車した時、ようやく足先の違和感はなくなった。その時、ふと前の人が振り返り、私と目が合った。相手は申し訳なさそうな顔で頭を下げる。私もつられて申し訳なさそうな雰囲気で頭を下げる。しかし、私は心のつっかえが取れたような気持になった。足を踏んでいる/踏まれていることに気付いたら、相手にきちんと伝える。やはり大切なことだと思った。
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