2022年4月より2か月に一回のペースで茨城新聞論壇への記事を書くことになりました。
今回はその第11回目になります。
内容をブログに掲載しますので、ご一読ください。
『茨城論壇』2024/02/03 茨城新聞掲載
『年を重ねることに希望を』

私の誕生日は3月だ。つまり、もうすぐ私はまた一つ年を重ねることになる。子どもの頃、誕生日は素直にうれしいものだった。しかし、大人になり、いつの間にか誕生日を素直に喜べなくなったように感じる。それはおそらく、自分が「老いる」ということを直面させられるからだ。
私が担当する大学の授業で「加齢」に関する講義がある。その内容は、人が年を重ねると身体や心理にどんな変化が生まれるのかといったことだ。この講義の中で、二つの質問を学生にしたことがある。それは「あなたは長生きしたいですか」と「あなたは大切な人に長生きしてほしいですか」だ。そして、およそ200人の学生の回答に、私は戸惑いを覚えた記憶がある。
それは、「長生きしたい」と回答した学生が4割程度であり、「長生きしたくない」や「わからない」と回答した学生が半数以上に上ったということ、そして一方で「大切な人には長生きしてほしい」と回答した学生が8割を超えていたということに対してだ。大切な人には長生きしてほしい。でも、自分は長生きしたいわけではない。若い世代のこの認識の乖離はいったい何を意味しているのか。そこに私はいまだに戸惑いを覚えている。
「長生き」は、確かに歴史的にも二面性を持って語られてきた。例えば、長寿を願う祭事は日本各地に多く存在するし、還暦や古希など、長寿を祝う慣例も古くからある。一方で、「姥捨山」という言葉に代表されるように、長寿がネガティブに捉えられてきた側面もある。しかし、「人生100年時代」とも言われる現代において、それもこれからを生きる若い世代が、長生きする未来を描けない社会になった現実を考えると、私は重い気分になる。何が彼らにそうさせているのだろう。
学生に直接話を聞いてみると「高齢になったら大変そう」とか「介護が必要になったら周りに迷惑をかけそう」といった声のほか、「社会保障や年金もどうなっているか分からない」とか「経済的にどんな暮らしになるのか分からない」といった声も聞かれる。確かに、これだけさまざまなメディアで「少子高齢化」が強調され、介護の大変さや今後の社会保障の不透明さの情報に接していれば、自分の将来に不安を感じるのも当然のことなのかもしれない。
ただ、彼らの声を聞いていると、腑に落ちないことも増える。それは、何か「つくられた」イメージの中で話をしているように感じることだ。つまり、実体を伴った話ではなく、あくまでも虚像(のようなもの)を基に語られている印象を受けてしまう。確かに加齢に伴って起こるさまざまな変化は、若い頃に比べればさまざまな面でネガティブな影響もある。しかし、年を重ねることで養われるもの、年を重ねることでしか生み出せないものもたくさんある。そのことを私自身、仕事やプライベートで出会ってきた多くの人々との体験から確信している。それは、「虚像」という輪郭のない情報ではなく、「現実」という実態を伴う情報と広く接していれば、おのずと体感するものだ。
私たちは改めて考える必要がある。私の感じた「戸惑い」は、私たち自身がつくってきたものにほかならない。それは若い世代だけでなく、私たち自身をも縛る呪縛にもなっている。「年を重ねる」という誰にでも訪れる当たり前の現象をどのように現実の中で捉え、表すのか。「大切な人には長生きしてほしい」という思いを、自分たちの未来として描けるように、私たちが「虚像」をつくったのであれば、私たちは「実体」を伴った「希望」もつくれるはずだ。
Comments