2022年4月より2か月に一回のペースで茨城新聞論壇への記事を書くことになりました。
今回はその第10回目になります。
内容をブログに掲載しますので、ご一読ください。
『茨城論壇』2023/11/18 茨城新聞掲載
『世代を超え共有する言葉』
「最近の若者は」という言葉はいつの時代も聞かれる言葉のようだ。二十数年ほど前に私が学生だった頃、よく周囲の「大人」たちが口にしていた。そして二十数年ほどが経過した今、その私も口にしてしまうようになった。
街で見かける若者は同じような服を着ているように見えてしまうし、テレビや雑誌で見かける若い俳優や歌手も判別がつかないと感じてしまうことがある。実際に若者世代の学生と話していて価値観の違いを感じることは少なくない。
例えば仕事を選ぶうえで何を大切にするかという話をしていると、「自分の時間をとれること」や「周りと仲良く仕事ができること」といった内容を最初に挙げる人も多い。私が同じ問いをされたとすると「そこで自分のやりたいことができるか」とか「自分がその仕事を通じて社会にどんな影響を与えられるか」といった、どちらかというと前のめりな内容を思い浮かべてしまう。それに比べると、少なくとも私が話を聞いた「最近の若者」の世代は、一人一人の存在を尊重する、よりインクルーシブな価値観が広がっている世代と言えるかもしれない。
「ミレニアル世代」や「Z世代」といった言葉は、世代をひとくくりにしているようで、私個人としてはその使用に若干の抵抗がある。しかし、現在という時代を若者として生きる世代と、現在とは異なる時代を若者として生きてきた世代とでは、個人の価値観の違いは前提とはいえ、時代的な影響による価値観の違いも当然存在するのだろう。
では、そうした価値観の異なる「最近の若者」に私はどう接すればよいのか。価値観の違いを受け入れ、説教めいたことをできるだけ避け、若者が望むことができるように接すればよいのだろうか。それとも、たとえ若者に嫌われようとも、若者の価値観に無理に迎合することなく、自分の経験による価値観を伝えることを躊躇しないように接してもよいのだろうか。
ここで立ち止まって考えてみると、私の問いは当たり前のように「私」が主体になっていることに気づく。「私」が「最近の若者」とどう接すればよいのかという問いだ。では、主体を変えて考えてみるとどうなるのだろう。つまり、「若者」は私とどのように接すべきだと考えているのかを想像してみる。すると、これがなかなか難しい。しばらく思索を巡らせていると、ふと「最近の若者は年長者に敬意を払わない」というフレーズが思い浮かんだ。
このフレーズは、世間のいたるところで年長者からの愚痴として聞こえてきそうなものだ。この主体を変えてみるとどうだろう。「最近の年長者は若者に敬意を払わない」こうなると、あまり耳にしたことのないフレーズになる。思い返してみると、私が若者世代だった頃も年長者への愚痴はもちろんあった。しかし、それらの言葉は年長者の言葉と交わることはなかった。それは、若者世代の言葉として語られていたからだろう。「最近の」というフレーズも、過去の経験を有する年長者の言葉であり、過去の年長者を知らない世代にとっての言葉にはならない。つまり、世代を超えて共有できる言葉、お互いが交わるような言葉を有してないということが、世代の隔たりそのものを意味しているのではないか。
では、具体的にどうすれば世代を超えて共有できる言葉を持つことができるのか。この答えも簡単に出せそうにはない。しかし、少なくとも「最近の」という一方的な言葉でまとめるのではなく、年長者も若者も、それぞれの個人の存在を尊重した言葉が必要なのだろう。
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