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執筆者の写真Yoshiyuki Kawano

第8回 茨城新聞「茨城論壇」への掲載(2023/7/15)

更新日:2023年10月7日

2022年4月より2か月に一回のペースで茨城新聞論壇への記事を書くことになりました。

                

 今回はその第8回目になります。

 内容をブログに掲載しますので、ご一読ください。




『茨城論壇』2023/7/15 茨城新聞掲載



『自分の目で「真実」探す』





 「白か黒か」はっきりさせることができると気持ちがいい。メディアでも歯に衣着せぬ発言で物事をはっきりと断じる人は人気者になる。反対に、物事をあいまいなままで進めると、たいていの場合は嫌われる。「目的がはっきりしないままだから失敗したんだ」とか「あいまいな態度だから誤解が生まれたんだ」とかは、多くの人が経験したことのあるエピソードだろう。

 

 私自身、冒頭で述べたように「白黒」はっきりさせたい性分ではある。人に何かを伝える時は、あいまいさをなくして分かりやすくなるよう努めている。指導している学生から何らかの助言や判断を求められた時も、「玉虫色」のものではなく、具体的で明確なものを心がけている。しかし、実際には「白か黒か」はっきりさせることができず、もやもやを抱えてしまうことが少なくない。そんな時にはつくづく「世の中はそんなに単純ではない」ということを実感してしまう。

 

 「白か黒か」のような二つの値のデータのことを「バイナリデータ」と呼ぶ。プログラミングなどの領域では「0」と「1」の2進法を指す言葉のようで、その二つの値の記述によって、コンピューターなどの様々な挙動を定義しているという。一方、私たちが生きる社会は必ずしも二つの値のみで定義できるものばかりではない。ある人にとってみれば、「0」かもしれないし、別の人にとってみると「1」かもしれない。あるいは「3」と見る人もいるかもしれない。「真実はいつもひとつ」という言葉はどこかで聞いたことがあるが、そこに誰かの「目」が関与する限り、その「目」には幾通りもの「真実」の姿が映るのだろう。それだけ、私たちが生きる社会は複雑で、あいまいさを有しているのだ。

 

 そう考えると、人々が「白か黒か」の二つの値で物事の答えを求めることに納得がいく。社会がそもそも複雑であいまいなものだとすると、人々が自分たちのよりどころとなるような明確な「値(答え)」を求めることは当然だろう。あいまいな状態の中に身を置き続けることは、おそらくほとんどの人にとって居心地の悪いものであり、時に耐えがたいものなのかもしれない。そのために、仮にその値(答え)が根拠に欠けるものだったとしても、あるいは間違いかもしれないという余地が残るものだったとしても、居心地のよさに引かれ、その値(答え)を選んでしまうのだろう。答えを出してしまえば、ずいぶんと「楽」になるからだ。

 

 しかし、私も含め多くの人が葛藤しているように、「世の中はそんなに単純ではない」。一方で組織のリーダーと呼ばれる人は、そのような状況の中だからこそ、明確な答えを常に求められているとも言える。また、私たちの身近な暮らしの中でも大なり小なり、似た状況があることは上述したとおりだ。その時に求められることは、安易な「居心地のよさ」に惑わされることなく、むしろあいまいな状態に身を置きながら、変わり得る「真実」の姿を探し続けることができるか、ではないかと思う。もちろん、迅速な判断が求められる時は悠長にかまえていられないだろう。しかし、そんな時こそ反射的に安易な答えを求めることは悪手となりやすい。

 

 繰り返しになるが、私たちが生きる社会は複雑であいまいだ。多様性(ダイバーシティ)とは、まさに社会の素の姿なのだろう。その中で「白か黒か」に答えを求めることにとらわれるのではなく、多少の居心地の悪さに耐えながら自分の目で「真実」を探し続けることができるか、一人一人が問われているように思う。

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