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執筆者の写真Yoshiyuki Kawano

第3回 茨城新聞「茨城論壇」への掲載(2022/8/20)

2022年4月より2か月に一回のペースで茨城新聞論壇への記事を書くことになりました。

                

 今回はその第3回目になります。

 内容をブログに掲載しますので、ご一読ください。




 『茨城論壇』 2022/8/20 茨城新聞掲載


 

 『「外見」超え相手を知る』

 


 健康診断を受けるたびに自分が年々成長していることに気付く(体重増加)。何とかしなければと毎年思いつつも、また今年も同じことを繰り返してしまったという思いを抱えたある日のことだ。立ち寄ったドラッグストアで、ふと化粧品売場に目を向けた時にあることに気付いた。売り場を見渡してみると、痩せること以外には「美しさ」や「健康」を手に入れることができないかのように訴えかけてくる商品説明や、肌の白さを「美しさ」としてアピールするビジュアルのポスターの数々が並んでいる。あらためて私たちの身の回りを眺めてみると、さまざまな商品やサービスが私たちの「外見」を鋭くえぐってくるかのようにあふれている。そこまで訴えかけてくる「外見」とは、私たちにとってどんな意味を持っているのだろうか。

 

 「ルッキズム」という言葉がある。あまり耳慣れない言葉なので、調べてみると、「外見至上主義」とか「外見を重視する価値観」とかを意味するようだ。本来的には「外見に基づく差別」や「容姿に基づく差別」と定義されているものも散見される。


 「人を外見で判断してはいけません」と子供の頃に注意された人は多いだろう。一方で「清潔感のある服装を心がけなさい」と指導を受けて心がけている人も少なくはないはずだ。世間を見渡してみても、容姿で「美しさ」を競っているとしてミスコンテストの類が批判の対象となることもあれば、「イケメン」という言葉がもてはやされるようになって久しい。さまざまなメディアのビジュアル(雑誌の表紙など)を見れば、人間は「外見」というものにとてつもない執着を持っていると感じることもある。ダイエットに成功した人に対して「きれいになったね」と褒めることも珍しくない。これらは同じ次元の話ではないかもしれないが、考え始めると混乱してくる。人の価値は「外見」で決まるわけではないことは疑いようがない。しかし、果たして本当に私たちは「外見」にとらわれずに生きていくことができるのだろうか。

 

 現状、多くの人はさまざまな判断を行うために視覚情報に頼っている。これは人間の認知特性としてあらがいようがないのかもしれない。一方、例えば視覚に障害のある人にとって「外見」がもたらす意味は異なってくるだろう。弱視の人(完全に視力がない状態ではなく「見えにくい」状態の人)にとって、わずかでも感じる相手の「外見」の情報は、相手を認識する上で重要な意味を持っているはずだ。しかし、それだけではなく、声や匂い、動きによる空気のゆらぎ等も含めて相手を認識していくだろう。これは視覚に障害のある人以外も同様だが、視覚に障害のある人にとってこれらの情報は「外見」以上に豊かな意味をもたらしているとも考えられる。

 

 そう考えると、私たちは相手の存在を認識したり、理解したりするための入り口の一つとして、「外見」から情報を得ているに過ぎないことが分かる。しかし同時に、私たちの多くは「外見」の「呪縛」から逃れられない。厄介なことは、「呪縛」にすら気づいてない人も多く、気付いたとしてもどのように振る舞えばよいのかを知らないことだ。それならば、自分が「外見」にとらわれることを否定するのではなく、正面から自覚することが何より必要なのではないだろうか。そして、相手のことを知るために「外見」以外の情報を積極的に仕入れるように行動することが肝要だろう。「外見」を超えて相手を知る。「ルッキズム」に対抗できるのは、こうした相手をより良く知ろうという真摯なまなざしではないだろうか。

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