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執筆者の写真Yoshiyuki Kawano

第5回 茨城新聞「茨城論壇」への掲載(2022/12/24)

2022年4月より2か月に一回のペースで茨城新聞論壇への記事を書くことになりました。

                

 今回はその第5回目になります。

 内容をブログに掲載しますので、ご一読ください。




 『茨城論壇』 2022/12/24 茨城新聞掲載



 『平等』と『公平』の内実




 随分と昔の話になるが、大学で授業を担当するようになって間もない頃、視覚障害のある学生からある申し出を受けた。それは「事前準備のために授業資料を早めにもらえたらありがたい」というものだった。私自身、障害領域を専門に学んでいたこともあり、そうした対応は当たり前のものとしていた。しかし、今でこそ「合理的配慮」という言葉も浸透しつつあるが、当時はそうした申し出に「特別扱い」はできないと返答されることもあると聞き、何とも言えない気持ちになった。

 

 なぜ今になってこの話を思い出したのか。それは、最近の私の中にある、二つのキーワードを巡って生まれる"もやもや"のためだ。


 「一人一人の個性を大切に」とか「違いを尊重しよう」というフレーズは、世間のさまざまな場面で見聞きするようになった。私が専門とするダイバーシティ&インクルージョン(多様性と包摂)の領域でもよく使われている。一方で「みんな仲良く平等に」とか「不公平のないように」というフレーズも昔から使われてきた。私は、この同じような印象を受けるフレーズを眺めていると、最近"もやもや"を感じてしまう。それが「平等(Equality=イクオリティ)」と「公平(Equity=エクイティ)」を巡る"もやもや"である。

 

 平等という考え方はなじみ深い。先ほどの「みんな仲良く平等に」がまさに意味するもので、「等しく分け合う」というイメージだ。一方、公平はあまりなじみがない。「不公平のないように」というフレーズも「平等」のイメージが近いだろう。しかし、「公平(エクイティ)」としての公平は「一人一人の個性を大切に」とか「違いを尊重しよう」に近い。「等しく分け合う」というよりも「一人一人の状態に合わせて分け合う」というイメージだ。「平等」と「公平」は、多様な人々が共生するためには、ともに大切な要素であると直感的に理解できる。しかし、「等しく」か「一人一人に合わせて」か、そこには相容れないほどの違いがあるように私はときに感じてしまう。

 

 誰か「困っている」人に資源(支援)を分配しようとすると、「等しく」分配しなければ不満が生まれることは容易に想像できる。さらにやっかいなことは、「困っていない」人にも「等しく」分配が求められることが珍しくないことだ。先の学生からの申し出の例であれば、前もって受講生全員に資料を「等しく」配布すればよいだけで、教員にとってもさほどの労力ではない。しかし、例えば「お金」が関係してくるとそうはいかない。誰もが分配の偏りに敏感になり、「等しく」をさらに強く求めるようになる。その一方、「お金」は有限であり、全員が恩恵を享受することは難しくなる。そのために、結局「困っている」人に必要な資源(支援)が届かないという事態も生まれてしまう。

 

 このように「平等」と「公平」の内実は、これらの言葉の印象ほど単純ではない。私の"もやもや"を晴らすことは難しそうだ。それでも知恵を振り絞って考えてみると、この二つについては、何を「目的」として考えるかが私は大切だと思う。例えば、「みんなが授業に参加できる」という「平等」な状態を実現することを目的とすれば、一人一人の状態に合わせて「公平」に支援することは問題にならないだろう。それは「特別扱い」ではなく、目的を達成するための合理的な対応だからだ。

 

 しかし、それでも「平等」と「公平」を巡るもやもやは尽きない。それはまるで、私(たち)の知恵を試しているかのようだ。





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