2022年4月より2か月に一回のペースで茨城新聞論壇への記事を書くことになりました。
今回はその第4回目になります。
内容をブログに掲載しますので、ご一読ください。
『茨城論壇』 2022/10/22 茨城新聞掲載
『自分事と考える大切さ』
「私たちが取り組んでいる課題を、皆さんには『自分事(じぶんごと)』として取り組んでもらえないんですよね」
私が研究テーマとする認知症やLGBTQ(性的少数者)といった、いわゆるマイノリティ(少数派)に関わる課題に取り組む人たちと話をしていると、このフレーズを耳にすることは少なくない。私自身もよく体験するが、課題としては大切なことだと多くの人に共感は得られるものの、解決のために行動を起こそうという段階になると途端に賛同には至らないということがよくある。その時に私たちは「彼らには『自分事』ではないんだ」と壁を感じてしまうわけである。この壁を乗り越えるために、ここでは「自分事」とは、いったいどんな「事」なのか考えてみたい。
「自分事」とは、多くの人は「他人事(ひとごと)」という言葉の対極にあるものとして認識しているだろう。「他人事」とは、その通り「他人」の「事」であり、自分とは関係のないことを意味する。そうであれば、「自分事」は「自分と直接関係のあること」だ。なるほど、確かに社会にあるさまざまな課題を「自分と直接関係のあること」として考えることは大切なことだ。気候変動やエネルギー問題についても「自分と直接関係のあること」としてみんなが考えれば、問題の解決に向けた大きな一歩となるだろう。
一方、私たちが「自分事」という言葉に込める意味には、「自分と直接関係のあること」以上のものが含まれることが往々にしてある。それは「自分の事として」という意味だ。言い換えれば「もし自分がその立場だったら」とも言える。この意味は、とくにマイノリティーに関わる文脈で用いられることが多い。「もし自分が車いすのユーザーだったら」とか「もし自分が認知症の診断を受けたら」とかだ。子どもの頃に「相手の立場になって考えなさい」とよく大人に諭されたものだが、おそらく私たちが「自分事」に込める意味としてはこちらの方が強いだろう。
ここで私は一つの矛盾を感じてしまう。それは、私たちが人々の多様性を語る時によく使う「人は一人一人異なる多様な存在だ」という言葉と相反する印象を受けてしまうからだ。つまり「自分が他とは異なる存在」ならば、どのようにしても「自分事」には成り得ないのではないかと感じてしまうのだ。私は現時点で「車いすユーザー」でも「認知症の診断」も受けていない。その私が、これらを巡る課題を「自分事」として考えてほしいと訴える立場にはないのではないか、と思ってしまうこともある。「当事者ではない」のに「自分事」という言葉を使っていいのかと。
しかし、立ち止まって考えてみれば「自分事」はそもそも「自分に直接関係のあること」であり、そうであれば当事者でなくても「自分事」として物事を考えることは可能だ。そして、たとえその意味が「もし自分がその立場だったら」だとしても、「相手の立場になって考える」ことの大切さが色あせることはないだろう。当事者としての「自分事」はなり得ないとしても、相手の立場に思いを巡らせることは、それだけ相手のことを尊重するということにほかならない。その過程は相手を思い、よりよく理解しようと努めることのはずだ。そうであれば、「自分事」として考えることを通じて、それまで「他人事」だった相手の姿はより鮮明になり、そこで触れる思いにさらに深く共感することができるだろう。そして、その過程を経ることこそが行動に結びつくはずだ。
「自分事」は難しい。だからこそ、私たちは連帯し、知恵を寄せ合う必要がある。
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