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執筆者の写真Yoshiyuki Kawano

第2回 茨城新聞「茨城論壇」への掲載(2022/6/18)

更新日:2022年7月22日

 2022年4月より2か月に一回のペースで茨城新聞論壇への記事を書くことになりました。

                

 今回はその第2回目になります。

 内容をブログに掲載しますので、ご一読ください。



『茨城論壇』 2022/6/18 茨城新聞掲載

 

  『互いの「物差し」足して』

  

 梅雨の時期になると、ドラッグストアなどの店先でよく目にするものがある。湿気取りだ。その宣伝用の張り紙眺めていると、まるで梅雨は人類の敵のようにすら思えてくる。なぜこんなにも梅雨は嫌われるのか考えていると、ふと、そのじめじめとした空気がまとわりついたせいか、どっと疲れを感じることがある。新年度も3カ月目に入り、それなりに自分も「頑張って」きたのだろうか。


 「ちょっと頑張り過ぎたか」「いやまだまだだ」「周りに比べれば、頑張ったうちにも入らない」「そんなことはない、こんなに頑張っているのに周りは認めてくれない」「みんな、もっと頑張るべきだ」「おごっては駄目だ。もっと謙虚になれ」「あれ、そもそも頑張るって何?」


 私の中で起こる内なる対話の数々。梅雨のせいにするわけではないが、同様のことを感じる人は私だけではないだろう。さて、それでは私たちにとって「頑張る」とは一体何なのだろうか。

 

 当たり前だが「頑張る」のは私であって、その大変さや達成感などは私にしか分かり得ない。一方、私以外の人の「頑張る」の大変さや達成感などは、私による想像でしかない。つまり、「私」が基準になる。そう考えると「頑張る」というのはどこまでいっても主観の集まりだ。ということは、他人と比較してどちらが「頑張った」とか、客観的な基準があって「あなたは頑張った」とかを判定できるものではない。一人一人に「物差し」があるわけだ。そこまでは分かる。

 

 しかし、同時に私たちは「頑張った」大変さや達成感を認めてほしいとも願う。だからこそ私たちは、すぐに他人と比較してしまうし、その評価に右往左往すらする。その評価が、たまたま自分にとって都合が良ければ問題ないが(「私はあなたより頑張っている」)、比べられた側にすれば、他人の物差しで自分の「頑張り」を勝手に測られたわけだからたまったものではない(「あなたは頑張りが足りない」)。そんなことをしないでくれとお願いしても、いったん都合よく良い評価を得た側からすれば、そうそう手放したくもない。複雑なのは、一方的に測られた側の人間も、別のある時には自分が測る側に回ることだ(「あの人より私は頑張っている」)。つまり、立場がころころと変わってしまう。すると、この一連の枠組みが当たり前として認識されるようになる。そして、いつの間にか自分の物差しで他人を勝手に測っていることも、他人に測られていることも忘れてしまう。

 

 無理せず「頑張らなくてもいい」という声を聞くことも多い。それも重要なことだ。しかし、「頑張る」こと自体は悪いことではない。そして、「人と比べても仕方ない」ということもみんな分かっている。大切なことは、それでも「人と比べてしまう」ことを受け入れることではないかと思う。そして、さらに大切なことは、その上で「どう振る舞うか」ということだろう。私とあなたの物差しは違う。だから、「私の物差しであなたを測る」のではなく、例えば、お互いの物差しを足し合わせてみたらどうなるだろう。「あなたはどう思う?」その問いかけがあるだけで物差しが増え、もっと大切な何かの姿を測ることができるのではないか。

 

 私は、梅雨の季節が嫌いではない。一番好きな季節かと聞かれると自信はないが、それでも、傘を差して雨音に囲まれながら道を歩く時間も悪くないと思う。梅雨にもさまざまな姿がある。物差しが周りと違うからこそ、足し合わさってその豊かな姿が見えてくる。





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